育ちには、必ず意味がある
2020/06/11
それを知るときが、必ずやってくる。
お目通し下さり光栄です、京都で稀少な脳科学コーチ 西陣の拝み屋です。
本日6/11はオンラインのみご予約承ります。
14時〜17時満席です、ご希望の方はこちらから。
あなたは、自分の育ちが好きですか?
わたしは、自分の育ちが大嫌いでした。
生まれた街も、親も家族も環境もキライ。
でも、そんな育ちのすべてに生まれて初めて感謝したのが昨日という日。
その日はわたしには、もうひとつ別の記念日で、それがとても不思議な気がしたのです。
育ち。
そう聴いて、どんな印象を持ちますか?
脳科学的には育ちがあなたの基礎を作っていることになります。
どうしてこんな育ちしかできなかったんだろう、
人生の中でそう思うことは、誰しもあることかもしれません。
育ちが良過ぎて苦しむ人、反対に劣悪過ぎてもがく人。
生まれ育ちは、宿命の分野となるので自力で変えることはできません。
であるなら、いわば「必修科目」が育ちの中に含まれているのです。
そこで学んだ知識の使い方がわからないとき、人は「最悪だ、なんでなんだ」と苦しむのです。
しかし、その育ちがなければわからないことに出会ったとき、ようやくそこに価値が生まれます。
そのためには、自分の中にある好きと嫌いをしっかり認識しておく必要があると思うのです。
わたしが育ちが嫌いな理由が、そこに蔓延る醜さ。
人間の醜さを浴びるように見ながら育ち、毎日苦しくて吐き出したい時間の中で、そこから逃れる方法を探してきた気がします。
逃げるように掴んだ先には、質の違う醜さが待ち受けていました。
そこから死に物狂いで逃れた12年前、そのときは「嫌なものから、逃げてはいけない」としっかり認識できていました。
逃げ、という選択の先になにが待っているのかを知っていたからです。
逃げるのではなく、離れる。
逃げが許されるのは、生存に関係する瞬間だけ。
つまり人は、生きようとして生きねばならない。
わたしが育ちの中で見た醜さは、生きるためなら手段を選ばなかった人たち。
そんな中で自分なりに醜さを仕分けし、アウトゾーンを決めてきた気がします。
なんのために?
人に、美しく生きることを提唱するため。
それにはまず、自分がやるしかないですから。
わたしは、醜いものが嫌いです。
でもそれは、見える範囲のことじゃない。
内側に醜さを内包しながら、綺麗に振る舞う人間の醜態に反吐が出そうになる自分がいるから。
そんなわたしを作ってくれたあの育ちが、死ぬまで大嫌いですが、有り難いと思えるようになりました。
幼少期に育ちの中で作られた感性のセンサーは、外すことなくそれを見つけ出す。
だからこそ、幸せになることができる。
あなたを危きものから守ってくれるのだから。
あなたは、育ちで何を学びましたか?
わたしは、卑怯者と恥知らずはこの世で最も醜いと学びました。
そんな環境で育ったわたしだから、まかり間違うと自分さえ醜く生き延びてしまう。
生き意地を美しく。
それが、野良として生きる基本。
そう。
銀魂のこの台詞みたいに、ね。