あなたが幸せでいなければいけない理由
2020/09/07
祈る暇がなくなるから、です。
お目通し下さり光栄です、京都の脳科学コーチ
日本にひとりの臼井靈氣療法家 西陣の拝み屋です。
本日9/7は、オンラインにてご予約承ります。
18時以降受付可能、ご希望の方はこちらから。
週末はおやすみを頂き、人生初の能舞台にて、人生初の祈祷を行ってまいりました。
能舞台が決まったのは一年近く前でしたが、祈祷が降りてきたのはなんと一週間前笑
神様劇場の無茶振りに泣いたよね。
普段は劇場支配人のわたくし、この日ばかりは演者になりました。
お世話になっている観世流千響会一門。
お師範は丸2年憧れ続けた能楽師の樹下先生。
あまりに好きすぎて、恐れ多くて入門のお願いに一年かかったと言うおバカぶり笑。
我が主下鴨神社の夏休みお能教室での出会いを経て、翌年の謡奉納で再会した樹下先生。
やっとの思いで「教えて欲しいです」と、教えを乞うことができたのは、謡奉納の本番少し前でした。
奉納終了後から始めた半年間の謡の個人お稽古、年が明けてから追加で始めた仕舞のお稽古。
どちらも、正統派野良の巫女になる修行のためでした。
関東では興味すらなかったお能の世界。
能は役になるときその偉人や神を身体に降ろすに近い行為をすると気づき、是が非でも学ばねばと思いました。
やがて、京都神泉苑に伝わる雨乞い巫女舞の伝説を知り、舞えない巫女など巫女にあらず。
そう思って仕舞のお稽古もお師範にお願いしたのでした。
舞台の演目は、素謡「田村」、仕舞「玄象」、そして番外仕舞としてお師範の「野守」と続きました。
「田村」は、戦国武将坂上田村麻呂が悪魔鬼神を討伐する歌詞があり。
「玄象」は光源氏の祖村上天皇の霊を琵琶湖の龍神の持ってきた琵琶により天に返し。
「野守」は地獄生まれ地獄育ちの鬼が奈落の底から現れて、天国から地獄までを真実を映す鏡で見せて、また奈落の底へ戻っていく話。
「野守」が舞い終わり、付け祝言というめでたく終わりを知らせる謡が歌われ。
静かに天地の蓋が締まるのを眺めていました。
まあまあ、ぐったりした笑
「野守」の前に舞われた「野宮」は、源氏物語。
源氏の君を思うあまり、怨霊となった六条御息所のお話。
強すぎる想い(執着)は、おぼうさまでも救えないかもしれない、という少し切ない解釈のある仕舞です。
もし六条御息所が未成仏となったら。
「野守」の鏡を見て、なにを思うのでしょうね。
わたしがOBON2020に出した船の乗船を拒んだ御霊たちは、「野守」の鏡を見て天地に振り分けられました。
どうか、加護を受け取る対象となった皆様方に余すことなくこの舞台の祈祷が届きますように。
今回の舞台は、ほんまに「祈祷とはなんぞや」という触りを観に行ったに過ぎない時間でした。
お師範の凄さを改めて思い知るとともに、能とは祈りである、と学んだ時間。
そして、祈りとはなにかにすがらねば為し得られないと気付かされました。
素謡31分の間中すがり続けた稽古時に頂いたお師範の言葉。
そんなお守り言葉を「おまじない」と人は呼び、それにすがるのだと身をもって知りました。
そんなおまじないが手渡せる巫女にわたしもなりたい。
新たな憧れを掴むための旅が、今日から始まります。
人は幸せでいなければ、祈ることはできません。
幸せな中で更なる高みを見て行うのが祈りだから。
だから、大変な場所は祈りを失う。
だからこそ、落ち着いている場所が祈るのです。
そのために、なるべく幸せに在るよう心がけて生きねばならない。
平時は自身の幸せを祈り。
非常時は他のために祈る。
きっとそれが、祈りのスタンダードなのだとわたしは思う。
いつか来る非常時のために、我が身の平時を祈り続けるべきなのだ、と。
「自分が一番」、この言葉の本当の意味は他者のために祈れる自分であるためのおまじない。
随分湾曲して世に広まってしまいました。
これから正さねばなりません、そう強く決意した日でもあった。
あなたのために祈りたいから。
わたしは今日も、まずわたしの幸せを神に感謝します。
ひとは、自分以外救うことはできない。
だからこそ、ひとの可能性を信じて祈るのだから。
大丈夫、わたしが愛してるから。
わたしに愛されたあなたは必ず幸せになる。
愛すべき価値があるものしか、わたしは愛さない。
なぜなら、わたしは神様の御使いなのだから。
わたしは、天国に一番近い場所。
そう言えるわたしを、これからも目指します。
ありがとう、みんな大好き。