「価値」を喰らう夜叉
2021/02/08
昨年夏くらいから、週末に休業日を
頂いています。
休みの日にもやることはあり、仕事する
日もあれば、急ぐんです!という依頼には
状況次第でお応えもします。
そもそもが、大の現場好き、おまけにじっと
しているのが苦手ときている。
体調でも悪くない限り、寝て過ごすこともなく
あっても年に1〜2度あるかないか。
そんな日は、命を無駄にした気分がして、エラく
落ち込むタイプです。
そんなわたしが、昨日の休業日は寝て
過ごしました。
朝ごはんが夕方17時笑(起きたのは15時)。
で、寝たのが夜の23時過ぎ。
1日の短いこと、短いこと笑、さすがに笑った。
きっかけは、前日の高台寺参拝やと思っています。
先日、圓徳院を拝観しました。
北政所 ねね殿が晩年を過ごした地です。
その向かいにある高台寺、占い師をしていた
時代に風水ができる先生に「高台寺は、貴方の
パワースポットよ」と言われていました。
しかし、参拝したことはなく。
湘南で大船観音を眺め育っていますから
霊山観音は、懐かしさを感じるものです。
6日の午後、思い立ち高台寺を拝観に。
霊山観音は、タイムアウトで外から眺める
だけになりましたが、高台寺でとても不思議な
体験をしました。
(そのお話は、またいつか)
母方のルーツは神奈川県小田原市にあります。
言わずと知れた小田原城のある城下町、
秀吉とは因縁のある地です。
個人的にも、武将の中で好きではないタイプ。
故に上洛してからも、秀吉にまつわる場所
には、呼ばれはしますが、あまりいい印象も
相性もよくなく過ごしてきました。
そんな中、2年前にご縁ができた東山エリア。
時代の軸は幕末、150年前。
戦国の世からはだいぶ近代の話ですね。
秀吉の時代はいまから400年は昔です、
そのさらに前、1200年以上前の時代が
清水寺にお祀りされている坂上田村麻呂の
時代。
昨年秋に謡で坂上田村麻呂をやらせて頂き
とても勉強になりました。
以来東山エリアは、わたしにはちょっと
特別な場所。
実は京都営業のスタートは、ここ東山の
いまはなきギャラリーの2階からでした。
高台寺で語られているねね殿の姿は、
湘南育ちのわたしには、北条政子が
重なります。
西口にある寿福寺は、政子が亡き夫頼朝を
偲んで建てたともされていますが、実は
それはカムフラージュなんじゃないか、と
いう説があるからです。
ねね殿が生前に建てられたという霊廟霊屋。
「おたまや」と呼ばれるこの建物は、ねね殿の
ご遺体が眠る墓所であり、その上にはねね殿の
人形が鎮座していました。
そして、その並びには、秀吉公の人形も。
けれど、この二つの人形を同時に参拝は
できません。
建物の構造上、斜向かいに立ち、お一方ずつ
しか手を合わせられなくなっているのです。
わたしが知る秀吉は、茶々のイメージが
強いです。
たぶん唯一好感を持てたのが奥田瑛二さんと
広末涼子さんの秀吉と茶々だったから。
そこでは、ねね殿はあまり語られて
いませんでした。
ま、悪評高い「GOEMON」だからかも
しれませんが。
今回正室としてあの時代に恋愛結婚した
ねね殿の側に立ち、圓徳院を観てからの
高台寺を拝観は、そこで語られているものとは
違う真実を見せられた気がしました。
隣で胡座をかく夫の横で、常に立ち膝で
あったねね殿。
最高の妻と呼ばれても、「最愛」の称号は
茶々に向けられることになった正室。
秀吉を偲び高台寺に通った、という語られて
いる事実は、あの霊屋をみるに俄かに信じ
がたいものでした。
まあね、歴史なんて残されたものがどうにでも
歪めて解釈できますしね。
ただ、秀吉はやっぱり好きにはなれないし
きっと夜叉だったんだろうなあ、って思って
しまうけれど。
高台寺の境外に天満宮がありました。
ミッチーこと菅原道真公がお祭りされて
いましたが、そのお軸が島流しに合い
憤怒しているときのお姿。
……なぜ、そこチョイス……だから
ぐじぐじ呪うんだよー。
ちょっとミッチーが可哀想になりました。
少しは優しくしてあげよう。
天満宮での御朱印は「夢」。
この日不思議とこの御朱印だけしか頂けず。
しかも、不動尊巡りあと二つ分あけての
始まりは、ちょうど裏側に回る場所からでした。
御朱印帳の裏表を使うか使わないかは賛否
あるようですが、今回は使おうかな、と。
どこまで裏を走るかわからないけど、そこにも
なにか、意味がある気がするのです。
坂上田村麻呂の妻は悪鬼だったとされますが。
鬼より生きている人間の方がずっと怖い
場合も、あるからね。
人の価値を喰らえば、夜叉になる。
仮に価値を喰われても、自らが夜叉に落ちては
ならぬ、そう言われた気がした高台寺。
その脳のアップデートには、どうやら1日を
軽く要した模様です。
今日がその始まりの日。
また、夢に向かって、頑張ります。