「悪魔」という存在は、どうするべきもの?
2020/07/28
それは、鬼とは違う扱いです。
お目通しくださり光栄です、京都の脳科学コーチ 都の巫女 西陣の拝み屋です。
本日7/28は神旅のため、お休みをいただきます。
ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
明日7/29は島原サロンデー、14時~15時半のみ受付可能、思考のお稽古も同時刻で受付中です。
お問い合わせはこちらから。
8月から行生活に復帰するというお話をここ数回していますが、はたして何をしているのかってことですが。
長いこと、お祓いしない霊媒師としてお仕事してきましたが。
それを辞めてみようと思っているのです、そう思えた背景には「霊媒師」として仕事していくのを
辞めたからかもしれないのですが笑。
いちいち一般的じゃないあたりが、いかにもえみちゃん的ですけれど。
「霊媒師」って聞いて、いいイメージ持つ方、どれくらいいらっしゃいます?
たぶん、ほとんどいないでしょう。
悪霊と闘ったり、未成仏靈と闘ったり、まぁ、だいたいそんな感じ笑。
お客様でも一番そこを期待していらっしゃる方が、特に関東は多かったですね。
霊媒師なのにお祓いしないって、どういうこと?!的な話を随分されてきた気がします。
あたりまえですが、えみこも人間なわけで、家族もいれば夢も見れば、当然死ぬわけですよ。
一応血液の色は赤いです(笑)、でも、そういうもろもろを全部すっ飛ばしてしまうものが「霊媒師」とか「霊能者」って呼び名なんですよね。
なかにはそれを特権階級みたいに勘違いされている方もいらっしゃいますが、そうじゃないんです。
個人的には「サッカー選手」とか「ピアニスト」と変わらないわけです。
いいなー、あの人たちかっこいいなぁ、とか思ったりすることもあります(笑)
(えみちゃんは、超絶パンピーなのです)
だからこそ、お祓い云々言われるとげんなりするから「もう霊媒師辞める」ってなるんですけど(短気)。
霊媒師と名乗った背景には、靈と対話できる人が霊媒っていってないとお客さんが探しにくいっていうアドバイスを業界の先輩から貰ったからだったんですが。
それはある意味正解で、ある意味不正解でした。
霊媒師=お祓いする人、という誤ったイメージで人を引き寄せるようになってしまった。
そうじゃないんですよね。
でも、ならどうしていまさら行に行くのか、そこには「令和」という時代が大きく関係しています。
昨日新しいワークショップのお知らせを出しました。
5年くらい前にやっていたもので、しばらく自分でも使っていなかったものでした。
公開したら、その日のうちに三名の方からお申し込みをいただきました。
(これが時代が求めているやつってことね)って、すっごく思った。
同時に真理予防学でお伝えしている11月のゲートのことを思い出したのです。
11月のゲートとは、2018年から2020年までの人生のシフトチャンス期の出口直前に来るチェックポイントのこと。
「ゲート」と呼ばれているからには、門であり関所なわけですが。
ここをどう活かしたかで、その先の人生には多分大きな差がつく重要な通過点。
そのゲートは人によっていろいろなテーマを持っているわけですが。
真理予防学では、この二年の間、その活かし方を毎月勉強してきました。
生徒さんたちはある意味難解なこの時空の仕組みを活かしながら人生を切り開き、とても濃い時間を過ごされているように見えます。
そして、活かす活かさないに関係なく、すべての人の上にこのゲートは存在しているのです。
要は掴むか掴まないか、知るか知らないか、ただそれだけのこと。
それが意外と難しいんですよね。
今回のゲートでは、2018年という一つのキーワードが出てきます。
2018年の秋、わたしは「悪魔」と称されるものと接触していたことを最近気づかされました。
当時は神奈川から出てきたばかり、とあるコミュニティの中でこの「悪魔」と関わるわけですが、そこでは多分今でも私の存在はある種の鬼として扱われているのではないかと思います。
何年か前にある広告で「僕のお父さんは桃太郎というやつに殺されました」という赤鬼の子どものポスターがありましたが。
物事の善悪って本当にああいう側面があって、昨日他界された山本寛斎さんの御兄弟である伊勢谷さん主演の映画「キャシャーン」の中にも「悪には悪の理由がある」ってセリフがあって、とても好きな映画ですけど(実に賛否両論ある映画ですが)。
2018年の秋って、そういう善悪についてものすごく客観的に見る時期でした。
自分の善悪に対する価値観が大きく転換していった時期でもあります。
そのゲートが戻ってくるのだなぁって思ったとき、行に戻る話が一緒にやってきて、ようやく小さな諦めとともに受け入れたことがあるんです。
それが「鬼」と「悪魔」という二つの存在。
いまお稽古でやっている課題曲は「田村」という能で、主役はかの戦国武将坂之上田村麻呂。
その中に「悪魔」とか「鬼神」って歌詞が出てきます。
お師範にうかがったら、わたしの思っていた敵方の人を総称して指しているのではなかろうか的解釈でよろしいとのお話でして。
そうなったとき、思い出したのが神奈川で二年半通っていた磯子教会の聖書を学ぶ会のこと。
「カテキスタ」という神奈川に二人しかいない聖書伝承専門の先生に月一回みっちりと聖書を教わっておりました。
別に入信するわけでも、キリスト教を信仰しているわけでもなかった。
ただ、キリスト教についてしっかりと正しい知識を得たかった、そのために二年半毎月教会に通っていました。
先生からは「通勤するように早い時間に教会に来て学んでいくあなたが、それを無駄にするようなことがないよう、わたくしもしっかりとお伝えします」とかなり丁寧に高度なことを教えてくださいました。
いまの時代的なLGBTについてのキリスト教的転生の解釈とか、まぁ一般的ではないようなお話を毎月マンツーマンで御ミサの後にさせていただく大変貴重なお時間で、大好きな時間でした。
その先生が教えてくれたのが「悪魔」という存在について。
そして、それは日本の概念では鬼に当たると学んできました。
でもそれは、関東でのお話。
西に来てみたら、実は日本でも悪魔はいたということがわかったわけで。
(超びっくらぽん)
一年前、奈良にある玉置神社に行きました。
「呼ばれないといけない」と言われているらしい、神社です。
とても標高が高いところにあり、そこでは悪魔封じの護符を授与しています。
参拝者にだけ授与される護符、その護符に描かれたものと同じものが謡の「田村」に悪魔を征する方として歌われているのです。
650年前からこの国に悪魔はいた、その一つの証明なんだな、と。
そしてそれは、人や獣の姿をしていたのだろうな、そんな風に思うのです。
ある一定のサイクルで、時空は同じことを反芻します。
8巡すると640年、室町の時代が戻ってきてもおかしくないような時空のラインがあるのがいま。
だからこそ、悪魔に対し何か手立てを持たなければならないと思うようになったのです。
それが行に自分を向かわせたきっかけでした。
ちなみに「悪魔」とは、宗教学の定義では「誘惑するもの」をいいます。
鬼と間違えやすいので気を付けておきましょう。
鬼、悪魔、妖怪、魔法使い、これらはすべて別のもの。
そして、これらすべてが人間の姿をして世に現れるのが令和という時代なのだとわたしは思っています。
これらの分類、真理予防学で詳しくやりますよ、どこにもないカリキュラムで毎月お送りしております(笑)
受講生のみんな、頑張ってついてこよう。
ちなみに仏教では悪魔は「調伏(ちょうふく)」する存在です。
降魔調伏(こうまちょうふく)と、文言としてはいいます。
これはキリスト教にはない概念、日本はやはり独特なやり方で魔と向き合うのだなと思いますね。
誘惑や嘘に弱いから、祓いを避けてきた。
なぜならそれは、人を正しく疑うことができなければならないから。
一番信じていた人に裏切られたときの痛みを味わいたくないから、そこにはいきたくない。
それが祓いを避ける本音だったことに気づかされた七月の終わり。
刑事物語を泣きながら観ていた十代のわたしはきっと、未来の自分をあの映画に観ていたのかもしれません。
主題歌のように、唇をかみしめて。
あなたは、どのくらい正しく人を疑えますか?
本当に大切な人が悪魔になってしまったとき、それでもその人を愛し続けられますか?
わたしはまだまだ、その部分は弱いです。
だから、行にいくのです。
何年かかるか、見当もつかないけれど、でも。
わいも、やってみたいのです(結局お文具かよ)