「穢れ」の先にあるもの
2020/07/30
蓮の花は、泥の中から生まれて咲き誇る。
お目通しくださり光栄です、京都の脳科学コーチ
京の巫女 西陣の拝み屋です。
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昨日、二極化の記事を書きました。
二極化、光と闇が一般的なイメージだと思います。
実は、光の二極化、闇の二極化があるのですが、ご存知でしたか?
世界が分離したあと再分離を起こす、というのが拝み屋論です。
やんわりとは予防学でお伝えしてきましたが、それをさらに突っ込んでお伝えする段階に入った感がある最近の流れ。
今日は、闇の二極化について、少しだけお話したいと思います。
先日の授業くらいまで、闇の三分類についてお伝えしてきました。
「穢れ」「汚い」「醜い」、この三種。
自分がどこまで耐性を持ち、どの分野で勘違いを起こすのか、それを知るのが闇との付き合い方を知る早道です。
そして、このうちのふたつは、光に通じています。
ひとつは「汚い」。
汚いが光?と、思うでしょうか。
はい、汚いは、美しい(光)になる可能性があります。
汚い=汚らしい、昔懐かしのヤンキー達のスタイルを思い浮かべましょう。
80年台のリバイバルで「今日から俺は!」が映画化されましたが、あんな感じ。
あの汚さは、うちにある種の清々しさがあります。
清々しい=光です。
もうひとつは「穢れ」。
わたしたちは、必ず穢れます。
穢れ=氣枯れ、疲れは穢れのひとつです。
穢れ=疲れ=憑かれた、という図式。
疲れ過ぎて、憑かれてしまうんですね。
エンティティ解放ワークは、お稽古に来ていただくと、この「憑かれ」になった部分を解除します。
皆さま不思議な体験をして、お帰りになります。
気の補填がされているといいな、と思いますね。
また、穢れの象徴は、人の死。
死なない人はいません、だからみんないつかは穢れる。
死は氣の消失ですから、二度と氣廻りが行われはしません。
臼井靈氣では、死者を蘇生することは固く禁じられています。
鋼錬でも、禁を侵したが故にアルは鎧になってしまいました。
神様は決めたルールは変えないのです。
人生は一度きり、「人間」の、そのルールは変わらない。
もっとも、人間でなくなるなら、話は別ですが。
氣を消失した人間は、穢れた存在になります。
でも、その先に待っているのはなんでしょう?
神か、仏、つまり、光なんです。
死んだら仏になるのは、一般的に周知されています。
それは仏式の作法で穢れを光に変えた場合。
阿弥陀如来がお迎えに来ます。
一方の神。
神は、神式のお作法で光に変えると神になります。
神社にある「祖霊社」などにお祭りされた御霊がそれに当たります。
神になられたので、仏式でいう一周忌、三回忌などはすべて「祭」として斉行されます。
神と仏、光の世界も二つあるのです。
ちなみに、この二つは150年前まで一緒の世界でした。
明治天皇が神仏分離を行い、光の世界は二つに分かれました。
そのおおまかな分け方は「肉体を得た経験があるもの(仏)と、ないもの(神)」。
しかし、そこには例外があり、人でありながら神通力を得たと判断された人々は神になっています。
安倍晴明や、菅原道真、崇徳天皇など、有名な人物でありながら、神とされた方は意外といらっしゃる。
神式のお祭により、穢れを光に変えられたのだなあ、と思いますね。
今年の5月に、友人の一周忌がありました。
一年祭として、一人でお弔いをさせていただきました。
神式のお祭りごとの中で、友人が神になっていくようで、なんだか嬉しかったのを覚えています。
ありがとう、生まれてきてくれて。
そう思った。
いつか、わたしもなれるかな。
誰かの神様に。
あなたは、どちらの光になりたいですか?