氣を授ける〜息吹の、吹き込み方
2020/08/01
それには、使ってあげるしかありません。
お目通しくださり光栄です、京都の脳科学コーチ
都の巫女 西陣の拝み屋です。
本日より8月、初日の1日は島原デー。
18時まで島原サロンに常駐します、15時以降空きございます。
ご希望の方は、こちらから。
14時半まではセッションのためお問い合わせ対応不可となります。
よろしくお願いいたします。
あなたは、使っていないものはありませんか?
見てあげない絵や本、身につけないアクセサリーなど。
それらは、うっかりすると気が死んでしまい、邪気の元になります。
もう似合わないから、と、着ない服も同様です。
捨てるか、あげるかするのがいいでしょう。
なんてことは、断捨離がブームになってから、あちこちで、きっと耳にタコですよね。
知り合いのパフォーマーさんは、絶対断捨離しないことを公言しています。
「いつか使う」の、いつかが実際にやってくるからだそうです。
この方は息吹を吹き込むお仕事なので、それがわかるのでしょうね。
拝み屋の仕事も、息吹を吹き込むお仕事です。
躯体を離れ、霊体と呼ばれる「氣」の存在になってしまった方を依らせ、息吹を吹き込む。
3年くらい前まで北鎌倉にあった仏像屋の店先にお席があったことがあります。
亡くなった方やペットちゃんを依らせ、お守りを作ることをしていました。
もう二度としないかと思っていたら、どうやらペットちゃんは、また再開することになりそうで。
依代を作るときは、母体となる依らせるものが必要になるのですが。
それにご縁ができる=依代を生み出してほしい、と願う御霊がある、とわたしは判断しています。
元々八百万の神様は依る神です。
自然神のため、実体を持ちません。
樹や葉、枝、幟、岩など、様々なものに依り、象徴として信仰されます。
今年、祇園祭はコロナ下で神輿を出せませんでした。
しかし、街の人々は神様を榊に移し、白馬に乗せて巡行させました。
神輿会の皆様と神社の方のドラマは、心底この街に惚れてしまう程の熱量を感じ、しばし泣きました。
依代なんて、勝手に作っていいの?
神職でもないくせに。
そんな言葉を何回も浴びてきましたが。
この街に暮らし始めて、少しずつそれを洗い流しています。
できることをしないことの方が、罰当たりなのではないかと思い始めたからです。
必要がない人には、何もしなくていいし。
聴きたくない人には、伝える必要もない。
その時間を、どこかにいる聴いてくれるかもしれない人に出会うために使うべきだろうな、と。
わたしも人間だし、いつかは死ぬ。
わたしが死んだところで、喜ばないまでも無関心な人のために使う命は、もうないのだな、と。
命とは、人生を生きるための時間だから。
昨日のオンライン講座で「子どもに『どうして生きなきゃいけないの?』と聞かれたら、どう答えたらいいですか?」という話が出ました。
こう答えました。
人はみんな、幸せになるために生まれてきます。
そのとき、どんなに苦しくてもこれをしているときが一番幸せ、というものを抱いて生まれてきます。
それ以外は、なにをしても本当に幸せにはなれないから。
だから、早くそれを探して幸せになりましょう。
そうしたら、もう生きていたくても、向こうに還るようになりますよ。
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お能の面(おもて)は、年に一回は着けないと面が死ぬそうです。
息吹を吹き込むことがない面は、死んだも同然になるのでしょうね。
依代は、新たに息吹を吹き込むお作法。
そして、これと同じことはそのものを使ってあげれば、誰にでも簡単にできることなのです。
ただし、使い方次第ですが。
人は、出したものが還るブーメランの原理から逃れることはできません。
だからこそ、使い方はとても大切。
言葉も、時間も、思考も、気持ちも、ね。
言葉遣い
礼儀正しく(時間の使い方)
思慮深く(思考の使い方)
そして、気遣い
いま一度、息吹をどう入れているか、振り返ってみたいですね。